平和でありますように

世界人類が平和でありますように
という言葉が街なかに貼られているのをよく見かける。
どういう人たちがどういう気持ちで貼っているのかはわからないけれど、世界が平和であることを望んでる人は、きっとたくさんいる。全人類とは言わないけれど、いや各個人の心の深いところまで探せば、もしかしたら物を思うことのできる全ての人類が持っている望みかもしれない。

違う神様を信じていても、違う町に住んでいても、自分の大切な人が生きて笑っていてくれた方が嬉しいに決まってるのは変わらないんじゃないか。
それともこれは、限られた人間だけが持つ考え方なんだろうか?
来世があっても天国に行けても、今あるこの生活を大事にしたいと思うのは、平和な国で平和な生活を営んでいるから?
そんなわけない。そんなことじゃない。

戦争が起こっていても、病気が蔓延していても、そこで起こる人の死は、いつだって深い悲しみをもたらすだろう。
大事な人を奪われることが悲しくないわけがない。人間よりもよほど厳しい環境に生きている動物だって、大事なものが奪われた時そこに悲しみを感じるのだ。

ある土地を奪い合って血を流している人達、あるいは危険な場所に住む人達に、
「その土地を諦めて別の所に住めばいいじゃん」
というのは乱暴な話だ。
命や家族や友人はとても大事だけれど、それとはまた別で、どうしても手放すことができないものがこの世には存在するのだということを、私は理解できる。

その場所の土と水と共に生きる、信仰と共に生きる、先祖の魂を守って生きる。
そういったこととは一切関わりの無い人生を送っている私だけども、そういう生き方があるのだということを想像することはできる。

想像したり理解したりできてしまうだけに、世界の平和が思ったよりも困難だということもわかってきてしまった。

でもとりあえず、「今ここにある限られたもの」をみんなで分け合わなきゃいけない現実や、「見知らぬ町の他人」にもそれぞれ大事な家族や友人がいることなんかを見失わないように生きていくことができれば、少しは平和にも手が届きそうな気がする。

天災や病気や自然界の予期せぬ動き、人間の力では避けられないそういったもの達の脈動の中で生活しなきゃいけないのに、このうえ人間の引き起こす悲劇とまで戦いたくはない。

とりあえず凄く小さなことだけど、電車の乗り降りの時に人を押しのけるのやめませんかね。世の中そんなに、一刻を争う事態に陥ってる人ばかりな訳あるまい。
あと、スピードを緩めずに狭い道を疾走する自動車・バイク・自転車ね。危ねえんだよ!

ちなみに『世界人類が平和でありますように』を誰が貼っているのかはネットで検索したらすぐに出てきた。
なかなかに興味深く、調べてみて良かったという感じ。