異なる人格

私はよく、二重人格とか人格が分裂しているとか言われる。

決断できずに意見がコロコロ変わる、ということはあまり無い(と思う)ので、優柔不断というよりも、自分の中に存在する二人ないし三人の人物が入れ替わり立ち替わり主張する、という方が的確な気がする。
そんなだから好きな四字熟語が「徹頭徹尾」とか「首尾一貫」だったりするんだろうか。憧れなんだろうか。

もしかしたらその別人格達が主張するそれぞれ異なる発言は、自分の中の理想と現実なのかもしれない。現実と逆のことを求めることで、いびつな人間である自分の、バランスをとろうとしているという訳だ。
「クールでドライ」なのは理想。何故なら現実の自分は「ホットでウエット」だから。
逆かもしれない。いや、火事を起こしやすい性格を考えると、「ホットでドライ」だったりするだろうか?
どれが自分の本質で、どれが理想であるのかはわからない。人に聞いてみても、人によって私に対して抱くイメージは違うようだ。

この日記でも頻繁に唱えている「恋愛はレクリエーション」というのも、本当は自分に言い聞かせているのか、実際に本質的にそういう人間なのか判断がつかなかったりする。
別れ話の最中に辛くなって「うわーっ!」となってても、客観的に次の展開や自分の行動をシミュレーションして、盛り上がる方にわざわざ行動をコントロールしたり、潔く別れることはできるんだけど、それじゃちょっと物足りないよなあなんて余計な事を考えて引き伸ばし作戦に入ったり。そうやってみたもののイマイチつまらない展開だなあなんて自分自身が飽きちゃったら、唐突に「それじゃ」と言い残して相手に背を向けたりする。
雑誌の人気作品が、このままだと連載が終わっちゃうから話を引き伸ばして・・・とやってるうちに間延びしてネタ切れしてしまい、結局は何かいまひとつ盛り上がりに欠ける状態で連載終了になるのと似ている。読者としては多少名残惜しくてもしかるべき所でスパッと終わっといてくれた方が良かったのにねえ、みたいな(漫画家さん、編集者さん、こんな例えに使ってごめんなさい)。

自分の事を恋愛至上主義だと思っていた時は泣いたり喚いたりが心地良くて、こんなにのめりこむんだから私は恋愛第一の人間に違いない、と単純に信じていた。
けれども大人になるにつれてそういう男女関係にも飽きてきて、独りでいたくなって、とは言えたまにはそんな風に泣いたり喚いたりしたくなってその為だけに相手を困らせたり無茶苦茶言ったり振り回したり。
それで別れの時がやってくると、待ってましたとばかりにグチャグチャどろどろ少しでもドラマを求めて諍いを起こすのだ。
そして、よくよく思い返せば昔から似たようなことを考えて行動していたのだ、私は。

しまった。こんなこと書いたら縁遠くなるじゃないか。

そういえば芝居を創る時の心理も同じだ。
圧倒的にこういうのが好き!という気持ちと、だからこそそれに反してこういうのを作りたい!という気持ちが、本気で自分の中で闘っていたりする。

自分自身がこの調子だから。そんな訳だから私は「真実なんてどこにもない」という言葉を常に唱えているのかもしれない。

そう言いつつも「どこかに真実がある・・・」という言葉が頭をよぎるのは、これは私のロマンチストな部分だ。
ただしこのロマンチストな部分というのは、いつであれ常にもうひとつの気持ちの方に嘲笑され続けている。可哀想に。

今思い出したけれど、私が昔からやっている悩み事の解決法に「日記を書く」というのがある。
日記というか、自己との対話を紙に書き出すというのか。
人に話すように自分の今のぐちゃぐちゃした思いを書き出しながら、それに対してもう一人の自分が思ったことも同時に書き出していくのだ。会話なのでしっちゃかめっちゃかに言葉が出てくる。相手が語ってる途中で遮ってもう一方の言葉が出てきたりする。時には相手の言うことも聞き入れつつ、時には極端な意見で相手と距離を取りつつ。
頭も手も非常に疲れるが、思う存分に会話し終わった時には答えがはっきり出ている。

これも、明確に意見の違うもう一人の自分がいてこそできることだと思う。
いや、そうじゃない。
自分を構成する意見は唯一つではないことを自覚しているからできるのだ、と言い換えよう。

多少の差はあれど、本当は誰だってそうなのだ。一つだけで出来ているわけではないのだ。
と、思う。