日本人は無事でした

思春期の頃、海外での事故や災害のニュースの時に、
「日本人は無事でした」とアナウンサーが言うことに疑問を覚えていました。
日本人さえ無事ならいいのかよ、と。

今になってその時の自分を思い出すと、我ながらバカだなあと思います。
バカというか、言葉の理解力と状況を客観的に受け止める能力に欠けているというか。

事故なり災害なりが起きました、死傷者が出ています。
その状態で、まずTVを見ている人が真っ先に切実に知りたいと思う情報があるとすれば、自分の家族や知人の安否でしょう。

そう考えたら日本のTVで取り急ぎ報道するのは、そこに日本人の犠牲者がいたかどうかとであり、それは不思議でもなんでもなく。
もちろん日本に住んでる外国の人もいますから、母国の家族や友人知人を心配する人もいるでしょうし、外国人の知人や友人がいる人も少なくないでしょうが、まあ、どちらかというと(人数の割合を考えれば)日本人の情報が先に来るのかなあと。
決して、日本人以外はどうでもいいということではなく、と。

でもたまに、
「犠牲者の中に日本人はいなかったようです」
の後に
「良かったですね」
と言うバカもいます。ぞっとしますね。

人間愛の前に家族や知人への愛がくるというのは、おかしくないと思うのです。
不幸の中にひとかけらでも良かったことがあればそれを喜ぶのは決して悪いことでは無いと。そのひとかけらは大きなひとかけらになるでしょう。
幸いの中にひとかけらでも悲しみがあったら、それを悼むのと同じです。

なんて今は思うのですが。またこの考えがひっくり返る日も来るのでしょうかね。

大人になって、性善説という言葉がやたらと頭に浮かぶようになりました。

できるだけ良いことの方を信じていたいです。