悔しくて悲しくて怒りのやり場もなく虚しくて

憎くてたまらない相手がいた。

既にあらゆる痛手が過去の出来事となっているのに、今でも顔を見る度、名前を見る度に、あの時感じていた自分の悲しみや惨めさがよみがえり胸が苦しくなる。
今にして思えば大した事では無かったじゃないか、よくあること、誰も悪くなんてなかった、あの人にも悪気は無かった、全て終わったこと、と自分に言い聞かせると少しは気持ちが落ち着くが、代わりに妙な喪失感を感じる。

私は当時その相手に、想像の中で幾度も暴力を振るっていた。
こんなに人を憎むことができるなんて、と怖くなりながらも憎んでいた。

けれど、そこまで憎い相手なのに、想像とはいえ殺すまではできなかった。それを想像してしまったら何かを超えてしまうような予感がそれを阻止した。
道徳心なんてものではない。自分の中の、死に対するあまりに大きな恐怖心が、その想像を寄せつけなかった。

そして、実際に暴力を振るうこともできなかった。
片隅に残る良心は、その憎しみが実は単なる逆恨みであることを知っていた。けれど、だからと言って抑えることが出来ないほどに膨れ上がった憎しみは、逆恨みの何が悪い、と開き直ることすら簡単にした。
それでも現実に暴力を振るわなかった理由は、それをしてしまったらもう芝居の世界にいられなくなるだろうと気付いていたからだ。

相手への僅かな思いやりも、道徳心も良心もかなぐり捨てた私を踏みとどまらせたものは、ただ自分への愛情だった。

自分勝手に人の命を奪うことは悪いことだ。許されないことだ。
これについて、いかなる反論もできない筈だ。その反論が成り立つなら人間が文明を築き上げた意味は無くなる。
けれど、この正論を思い出せなくなる時は、ある。

無差別殺人、衝動殺人。
憎しみ怒り悲しみ、そして他者には理解できない理屈が、人を殺す。自分を殺す。

死刑になるにせよ自殺をするにせよ、自分の未来を打ち捨てて自分自身を殺すつもりで、人が人を殺す。

自暴自棄、全てをぶっ壊したい気持ち、そして自分の意識の中から自分を追い出し他者への愛憎だけを育て始め、人が人を殺す。

自分を愛すことができていたなら。

他者の事なんて考えず自分自身の生きる幸せを思ったなら、殺さずに済んだのではないだろうか。
他者を殺すことが自分に何の利ももたらさないと気付けたなら、殺さずに済んだのではないだろうか。

自分を深く愛していれば、いつかは人を愛せるのに。

自分の為に愛し、寂しさからさえも救われるのに。