登場人物の使い方

ルパン三世」の次元大介が、昔からとても好きだった。
が、原作漫画と旧テレビシリーズ、それと数作の映画以外のルパンはほぼ見ることがなかった。
いろいろ理由はあるけれど、一番大きな理由は脚本家と私の次元大介に対する好みの違いを感じるのが怖かったから。
ドラマを作るために、筋書きをつくるために、キャラクターにぶれが出るのは仕方のないことかもしれない。
特に、それが長く続いている物語だとなおさらに。
もともと次元大介という人物にそこまで細かい原作の設定はなかったのだから余計にいろいろやらされてしまうのかも。

男の美学みたいなものを持ちつつもあまりハードボイルド過ぎない次元が私は一番好きだ。
ルパン以上にかっこよくなくていい、ルパンと対等でなくていい。ただ行動を共にしているだけの男、というのがいい。二人の関係性があまりウェットな言葉で表現されるのは好きじゃない。
次元大介の墓標」の次元はとってもとってもかっこよかったけれど、ちょっとかっこよすぎた。男らしすぎた。

その点、3月に終わった新シリーズ・イタリアルパンの次元はあまり重すぎずシンプルでとても私は好きだった。
強いて言うなら、第1話でルパンが危機に陥った時に次元がどこからともなく現れ援護して、それに対してルパンが「助かったぜ」とか「ありがとよ」的なことを言い、次元が「世話が焼けるぜ」みたいな冗談を言うところが気に入らなかったくらいか。
冗談だから別にいいんだけど、そんなやり取り無いほうが相棒らしさや「いつもの」感じが出たのじゃなかろうか、なんて。
しかしこのシリーズは確かルパンファミリーがちょっと若いときの話っていう設定らしいし、アニメシリーズの第一作目としてはそういうやり取りが必要だったのかなとか、そもそもアニメ的賑やかしとして必要なのかなとか思うのだけど。
すごく細かいことを気にして我ながら面倒なファンだと思うけれど、なぜそのセリフを入れたのか脚本家(演出家?)に聞いてみたいなとちょっとだけ思ったのだ。

ともかく次元は、ルパンほどの軽薄さもなく五右衛門ほどのストイックさもなく、作り手の自由度が高い動かしやすいキャラクターなんだろうなと思う。


最近同じように感じるのは「ウォーキングデッド」のダリルという登場人物。
演じるノーマン・リーダスといえば私にとっては「処刑人」の人なんだけど、2010年に始まったこのケーブルテレビのドラマにおいて、ダリルはとにかく大人気らしい。原作のコミックには登場しないドラマオリジナルのキャラクター。もっと言えば、別の役のオーディションに来たノーマン・リーダスのために作られたキャラクターらしいのだけど、原作のキャラを差し置いて一番人気があるらしい。
本国では様々なキャラクターグッズが発売されているし、日本でもこの人気に便乗して昔ちょい役で出演したB級映画まで再販されるほど。パッケージにはもちろんでかでかとノーマン・リーダスの写真。とにかく人気なのだ。

それもそのはず、このダリルという役は肉体も精神も強くて猛烈に戦力になる&頼りになるのに、母性本能をくすぐっちゃう不器用さもあったりで、特に女にはうけるだろうなあというキャラクターなのだ。
10人中8〜9人はかっこいいと感じるんじゃないかなという役どころ。
加えてノーマン・リーダス自身がまずかっこいいし。

ただ、なんとなくそのキャラクターの動かし方に、次元大介同様、脚本家との好みの違いを感じることがしばしばあるのだ。
シーズン3くらいまでは意外性があるのねって感じで許容できていたキャラクターも、シーズン4あたりからだんだん怪しくなってきた。
やたらいい人になって警戒心が欠如してしまったり、突然考えなしの単独行動をとってしまったり。
ダリルという人間を魅力的に描きたいあまり、また物語にドラマを加えるために、キャラクターがあっちこっち行き過ぎている感じなのだ。

主人公のリックやシーズン1からの仲間のうちでも特に関わりの深いキャロルのように、より強い絆で結ばれているであろうキャラクターとの絡みには必然を感じるけれど、それ以外のキャラクターとまで心の交流が多すぎる。作り手のダリル愛が、ほかの登場人物にまで乗り移ってしまってるような。

わがままだけど前向きな美少女と二人きりで行動するうちに心を開き始めて、彼は少しずつ変わっていった…みたいなエピソード、わざわざダリルでやらなくてもいいのに。私はこのエピソードに1ミリも心が動かなかった。やるなら主人公のリックでやるほうがまだよかった。しかしリックにもそういうエピソードはあったのだし、ダリルでもやるのは蛇足としか思えない。
っていうか、既にキャロルがきっかけでダリルは心開いてるし、あの状況でまた諦めモードに入るダリルっていうのは無理がないだろうか。

あれは単純に「ダリルと美少女」をやりたかったのと、美少女べスの出番もここらで作っとかないとな、っていうただそれだけの裏事情しかなかったと思う。
次元もやたらと美女とのロマンスがあったけど、なんかきっと人を発情させるキャラクターなんだろうな、この人たちは。

なんて言いつつこの感覚、私も似たような覚えがあるのだ。
シリーズものの登場人物とは違うのだけど、発条ロールシアターの看板役者・江戸川良。
私はこの人が大好きで、かっこいい役をやらせたくなるのだ。ワイルドなのも、ひょうひょうとしたのも、ダメ男も。
で、若い子とか女優とかと深く関わる場面を入れたくなるのだ。二人きりでじっくり向き合うシーンをつい作ってしまうのだ。江戸川良の前では心を開いてしまう登場人物、みたいな役をつくってしまうのだ。
なので、ダリルや次元が好きで、ああこういうシーンが観たい!なんてあれこれやっちゃう脚本家ないしプロデューサー?の気持ちもとってもよくわかるのだ。もちろん、「これでますますファンは喜ぶだろう」なんて目論見も見える。

しかし、当たり前のことだけど、登場人物への思いが作品自体の出来を変えてしまうようではダメなのだ。
ウォーキングデッドやルパン三世が、ダリルや次元のために作品を変えているかと言えばもちろんそこまでではない。
私の芝居だって、江戸川良の見せ場を作るために無理筋を通したことはない。誘惑にはかられたけど。
でも、必要なサイドストーリーとそうでないサイドストーリーがあるのだ。この人のこういうシーンが見たい、程度の考えで、余計なエピソードを作るのは罪なのだ。

そしてもちろん、筋書きを通すために登場人物の人格がぶれることもあってはならない。
こっちのほうはよくある話。あらすじのために、無理な行動をとらされてしまう登場人物。

無理がある話でも無理があるように見せないのが役者の仕事かもしれないけれど、私は書き手の仕事として、物語の都合を優先するためにキャラクターに無理のある行動をとらせることは間違っていると思う。
その人間が、この状況で何をするか。そこがぶれては意味がないと思うのだ。

登場人物のためのあらすじになってはいけないし、あらすじのために登場人物が無理してもいけない。
その前提を守った上でいかに面白い話をつくるか。それが書く側の面白さだと思うのだ。
当たり前の話だね。


ところでウォーキングデッドのべスは、最後の退場のために無理にエピソードを作られたようで、やはりちょっとそれって役者にとっては不本意だったんじゃないかなあと思う。どうなんだろう。私なら嫌だな。
せっかくお姉さんがいるのに姉妹のエピソードよりダリルとの取ってつけたエピソードが主軸になるのはちょっとなあ、と。
いらない役だったとは思わないけど、シーズン2とシーズン3での扱いがちょっと希薄だったのがそもそもいけなかった。もう少し描いてあれば、シーズン4と5での感じ方もまた違っていたかもしれない。

視聴者がここまで気にするのはちょっとね、と自戒すると同時に、
そういうふうに観る側に思わせるような作りにしちゃダメよね、と改めて思ったりするのだ。

人生が一度きりなのは、フィクションの世界でも同じこと。
脚本家がその都度変わるシリーズ物では難しくても、私が舞台のために生みだす子供たちには、善人でも悪人でも、その人生をしっかりと生きられるようにしてあげたい。


そういえば、シーズン6で赤ん坊のエコー写真を見るダリルの芝居。赤ん坊が可愛くてしょうがない、子供を大切にするダリルが、表情を変えずに写真を見る芝居が良かった。あそこで笑顔になるのはダリルらしくない。
笑顔にならなくても、すんなりと写真に手を伸ばし、またそれを相手に返すのではなく別の仲間に渡すところで、祝福の気持ちと赤ん坊に対する希望にあふれた気持ちが伝わる。
ノーマン・リーダスの、そういう芝居が好きだ。
また「処刑人」も観たくなった。あれも、細かいところまで実に楽しそうでいいんだ。
早速今日、観よう。