その理由と方法

私の場合、日常的に怒り過ぎてるから本当に怒るべきところでの効果が薄くなっている。とは思う。
怒り過ぎてるというのはつまり回数的な意味でもあるし、回数が多いというのはつまり、一回一回の怒りの内容にくだらないものも含まれているということだ。利己的な理由での怒りを減らせばいいのだろうなと思う。

利己的な怒りと言うのはつまり、自分の思い通りにいかないことに対してとか、そういう怒り(子供かよ)。
だから例えばまだ経験の少ない役者なんかが礼儀を欠いた言動を取った時、それに対して怒っても、いや怒るどころか注意をするだけでも、
「また小うるさいことを言ってる」
と思われるだけだ。
受け取る側がとっても頭が良ければ誰がどんな発言をしようとも何でも素直に受け取って血肉にしてくれるだろうが、そんな立派な人間を想定する方が間違っている。そんな完成された人間であれば私ごときが何かを教えるような機会なぞ初めから訪れないだろう。
受け取る側に何かを求める前にこちら側が学ばなければならない。だって、先に生きていろいろ経験していて知ってることが多いんだもの。それを分け与えるのは先人の義務であるし、分け与えるためにはその方法を学ばなければならない。

そういえば怒ると叱るでは大違い、というのを読んだことがある。言葉の定義をどう考えているかと言う問題にもなってくるけれど、確かに怒りというのはそれ自体が利己的な行為であるのか。
ということはつまり結局、いかなる原因があっても、教えたり分け与えたりする際に怒る必要は無いのだ。


でもさ・・・実は叱ることすら意味が無いのかもしれないなんて思ってしまう。
おせっかいおばさんになるよ、と宣言したこともあったけど、やっぱり疲れるじゃん?
だんだんそれが相手の為なのか自己満足なのかわからなくなってくるし、「相手の為」なんて大きく構えるのはただ大義名分を求めているようにも思える。実際、わざわざ「相手の為」と言い出した時点でその行為は利己的なものになるんだろうと思う。心の底から湧き出るものなら、そこに言葉で補足を加える必要は無いのだ。

そして何であれ疲れるものは疲れる。
ずっと付き合って行きたい相手であれば愛情もそれだけ強くなるしこちらも根気強くなれる。愛したぶんだけこっちが損をするかもしれないけど、それでもいいやと思える。
ただ、知り合って間もなくてこれからも付き合いがあるかどうかわからない相手、それも良い関係を築けなかったかもしれない、つまり一方的にこちらが情をもって思いを寄せているような相手にあれこれやっても相手はありがた迷惑だろうし、それが伝わってくるぶんこちらも疲弊が激しくなる。踏ん張りがきかなくて、結果的には中途半端に怒って終わりになってしまったりもする。
そこに生まれるのは人間関係の不和でしか無い。
だったら・・・意味が無いんじゃないか?


なんつって。
諦めるのは、利己的な怒りを減らして注意や叱ることで自分の経験を分け与えるということを実践してみてからでも遅くない気はする。
先輩達が私に対して、疲弊して諦めることなく、根気良く我慢強く、時には赦してくれ、いろいろ教えてくれたおかげで今の私がある。
人間性がどんなにダメでも一応の礼節はわかってる(わかってるくせにできない、という中途半端さはあるが)、そう育ててもらった恩は、やはり後人に返したい。

とりあえず、何はなくともやっぱり挨拶だよねえ。
挨拶。報告。ご連絡。
たくさんのご縁があってこそ今の自分の状況があるという自覚。そして、その縁を誰がつないでくれたのかということを忘れないようにする心構え。そこに感謝があれば、挨拶、報告、ご連絡にいたることは当然だろう。
しかしながら、後から思い返せば当然のことでも当時は不思議とわからないことも多い。
そして、一回失敗したら随分気を付けるようになれるのも事実。
私は、5年前に発条ロールシアターを旗揚げした時にひどい失敗をしている。礼節を欠いた行為だったし、それが悪いことだと思い当たることすらできなかった。
それが悪いことだったと心から実感したのは、自分が同じことをされた時だった。実感してようやく自分の恥ずかしい振舞を反省することができた。

まあ、一個行動を起こす度に、その状況について客観的に見渡してみるという癖をつけることで随分と失礼は回避できると思うのだけど。

私の常識が世間の常識では無い。
何故、を5回問う(←受け売り)。
愚かで小さい私は、そんな風に地道にやっていかねばならない。そして身につけたものを後人に伝えるために、まずは自分が学ぶことを怠ってはならない。

そういうことだな。
やだ、ここに書いてることを実践できたら、私ってば相当の人格者になれるんじゃなくって??
まあ道のりは長いけど、今は諦めずに足を前に出そう。