ひとつ確かなこと

例えば、相手の苦境を心配して何か言葉をかけたとしよう。そんな時に相手から、
「お前に何がわかるんだ」
と言われても、
「お前は他人だから関係無い」
と言われても、まったく傷付く必要は無い。
実際のところ自分はその人本人では無い。何もわからない他人であるのは、まったくもって事実だ。

そして、そう言われたとしても相手の事を気に掛けるのをやめる必要は無い。やめたければやめれば良いけれど、やめたくなければ気にかけ続ければいい。
心の中は自由なんだから。

言った側の真意を知りたい気持ちは山々だけど、言われた側がそれを知るのは至難の技だ。どんなに頑張って読み取ろうとしても、極端に言えばそこから先はなるようにしかならない。

理屈や統計や己の経験や聞きかじったこと、推察や閃き思いやり、そういったものを駆使しても必ずしも真実に辿り着ける訳では無い。そもそも真実などどこにも無いかもしれない。それこそ言った本人の中にすら。

それでも相手の真意を求めてジタバタするのは、相手を好きだからということに尽きる。
好きだからわかりたいのだ。関わりたいのだ。

「自分の為」ではなく「相手の為」が先に立てば、そこに愛は生まれる。
それは決して一握りの大切な人に対してだけでは無く。
深い繋がりのある相手であっても、ただすれ違っただけの他者であっても、同じだ。
ほんの何か小さな接点があるだけの相手に対してだって、愛が生まれる事はある。それが大きな愛に膨らむ事もある。
それが人間の面白いところであり、いいところなんじゃないだろうか。

と、信じたい。

実際のところ、本気で相手を心配して思いやった行動でも相手からうっとうしがられることは多々あるだろう。
致し方ない。
こればっかりは相手との関係性、自分の人間性、信頼関係、タイミング、その時の気分、巡り合わせ、いろんな要素によって展開が変わっていくのだから。

だいたい相手に取ってみればそれどころじゃない大変な事態に陥っているのだ。こちらの愛や気遣いなんぞ構っている場合じゃないのは当然だろう。

とにかくまあ、傷付く必要はこれっぱかしも無いのだ。

なんて言ってはいるものの、いざとなったら自分は傷付くかもしれない。自分にとって相手が大切な存在であればあるほど、その衝撃は大きくなるだろう。
でも、相手が負っている傷に比べれば、その程度の自分の痛みなど屁でも無いのだ。
それは絶対に。

そんな風に考えて強くなることが、いつかきっと何かの役に立つと思っている。

そして、どんなに他愛ないことであっても、傷付く事は人生に必要な事なのだ。
傷付く必要は無いのだと唱えながらも、傷付く事が必要なのだ。

今日の日記は、大切なあなたへ向けてのメッセージ風。
思う存分傷付くがいい。わはは。