愛情

「おなかを痛めた子だから」

だから、可愛いのだろうか?
だから、見捨てずにいられるのだろうか?

母の愛というものを疑う材料を自分の経験では得てこなかったし、自分の母とは紛れも無い(←自分の目で確かめた訳では無いが)血縁関係にあるので、仮におなかを痛めてなくても母が私を愛してくれたかどうかはわからない。

父は淡々と、でも私が実感するに足るだけの愛情を、私に注いできてくれた。

友人が結婚して子供を授かり、今までに見たことのない愛情をみなぎらせているのを感じたこともある。女性でも、男性でも。

というように、実母や実父の愛情の深さを疑う余地は無い。それを例え証明したいと思ったところで、あまりにも証拠が無さ過ぎる。

同じように、養母や養父、義理と名のつく親の愛情を、ただその頭につく言葉だけで区別することも、私にはできない。そこに存在する愛情を疑うための根拠も証拠も、34年の人生で私は欠片も見つけられなかったから。

家族間の虐待や殺人は、血縁関係の有る無しに関わらず、たいてい不幸なすれ違いや悲しいめぐり合わせでおこるものだと思っている。明らかな原因がいつでも存在している訳ではなく、むしろ誰にも原因のわからない、どうにも説明のつかない、運命が意地悪くねじくれてしまったとしか思えないようなおこり方をするものだと。
ともかく子を生した経験も子を育てた経験も無い私が、ましてや第三者である私が、そこでおこった虐待や殺人を分析したり糾弾したりする資格はないだろう。
ただ愚鈍に胸を痛めることしかできないほどに私は無知で無力だ。

でも、
「血のつながりが無い子だから、愛せない」
「血のつながりが無い親だから、愛せない」
なんて、そんなことは絶対に有り得ない。

私は血のつながりだけで今まで生きてきた訳じゃない。
無償の愛を信じるには充分過ぎる、そんな人間関係に恵まれてきた。

幸せなのだと思う。
世の中に希望を持ち続け、信じ続けるのは、そういう幸せな人間の義務なのかもしれないとも思う。

信じてやろうとも。
絶望なんて頼まれたってするものか。
人におすそ分けできるくらいまで、とことん信用してやる。
信じていれば現実になるのだということも、信じてやる。

産まれてきてほんのちょっとの時間を、苦しい、悲しい、怖い思いで生きた子供が、今は寂しくありませんように。

現世が終わったら無になるんじゃない、天国があるよ、楽しい場所があるよ、というのも今だけは信じていたい。