善悪、真偽、信疑。

過去について、あれは善だった悪だった誰が悪い誰のせいだ策略だ陰謀だでっちあげだもみ消しだ…と議論する。
証拠も生き証人も数少ない状況で、ましてや何も知らない、知りたくても知る術も無い第三者がどこまで何を言えるだろうか。

広い意味での同朋、つまり全ての生あるもの達が幸せに生きていく為に、人類として過去を振り返り我が事として反省するのは必要かもしれないけれど、自分の目で確かめるのも叶わない事柄に対して、死者や犠牲者や懸命に生きた人々を冒涜するような真似を私はしたくない。

何もかも疑おうと思えば疑えるし、信じようと思えば信じられる。そして疑う事と信じる事は、どちらも善にも悪にもなり得る。
ただでさえ真実を知る事は難しいうえ、真実はひとつでは無い。

私個人としては、いかなる理由であれ他者の命を奪う行為は問答無用で悪だと思う。
でなければあらゆる事がなし崩しに許されていきそうで怖い。

ただし、悪である事イコール許されざる事、とは必ずしも言えなかったり、また許す許さない自体も難しい話で、突き詰めれば所詮は許しも裁きも人間のごっこ遊びと言ってしまえばそれまでだ。当事者でない者がどんなに慎重に意見を言っても、それは「個人の勝手な意見」に過ぎない。大多数の賛同を得たとしても、だ。

ところで私は必要悪という言葉が嫌いだ。悪は悪だ。必要あるものか。

「平和を求めての行為」であっても、一つでも犠牲が出るならばそこに本当の平和は無い筈だ。とは言え平和を信じてその行為に命を捧げた人間を一方的に責める権利が、何もしなかった「第三者」にあるだろうか。

当たり前だが、多くの出来事について我々はあくまで仮定に基づいた個人の意見を語るしかできない。己の正義と価値観が、必ずしも絶対的な真実では無い。

それを踏まえたうえで、原爆投下は紛れも無い真実であり疑いの余地の無い悪の一つだと私は断言する。
そしてあらゆる戦争もまた疑いの余地の無い悪だと。

ただその事と、信じるものの為に戦い散った人々、そして生き抜いた人々の思いを踏みにじる事は、やはりまったくの別物だ。

信じるも疑うも個人のさじ加減ひとつとはいえ、目の前にいる傷を負った人の、その傷まで疑って何になるだろう。
歴史を語る上でも人付き合いをする上でも、傷そのものを疑う事にさほど意味は無い。なのにその疑いという行為で、更に傷つけいたぶるような真似をして何になるのか。

私個人の勝手な意見に過ぎないが、しかし強くそう思う。