悲観主義の救い

一個前に書いた『結婚』という文章を読んでくださった方が、我が掲示板に励ましのメッセージを送ってくれた。すごく励ましてくれてたので、
「なんだなんだあ?そんなに深刻な話してないぜえ?女だと思って過剰反応してるんじゃないのかあ??」
と、読み返してみたら、なるほど、元気づけたくなるような文章だった。
いやはや何と言う悲観的な話をしているんだろうと我ながら呆れてしまったが、私という人間の思考は一事が万事この調子である。
いつも不慮の事故に遭った時の事を考え、大切な人達の突然の死を考え、仕事の失敗を考え、世界の破滅を考え、憂えている。
救いなのは、私の苦悩は長続きしないという点だろうか。
『結婚』を書いた時は、何だかふと結婚について考え込んでひたすらに陰鬱な気持ちでいたのだが、直後にコンビニで食べ物を物色し(この時点ではまだ陰鬱真っ直中である)、外へ出るやいなや歩き食いをしながら鼻歌まで口ずさむという始末であった。
そう、悲観主義ではあるけれど度を超した気分屋でもあるのだ。

喜怒哀楽が瞬間的に切り替わる性格なのは、私にとっての自己防衛本能なのに違いない。長い時間悲しい気持ちでいるのは何と言うかとても辛そうだ。

私は自分が気分屋である事をいたく気に入っている。外的きっかけも内的きっかけも関係無くひとりでに気分が変わる、いわばスイッチの切替え無しで電灯の明度がころころ変わるような、そんな人生。それは飽きっぽい私にとっておあつらえ向きだ。
が、身近にいる人間にとってこれがどんなに煩わしい性質かも想像に難くない。気紛れなのは陰→陽の変換時のみであったらどんなにか皆は楽になるだろうかと思うが、そんなできた人間、そうはいるまい。

さて、件の『結婚』でどうやらとても心配してくれた方々もいるようなので、ひとつ付け足しをしておこうかなと思う。
私は悲観主義である。慢性的な寂しがりでもある。だがそれは、飢餓から来る悲観でもないし、誰かの手を求めての寂しさでも無い。
他者と寄り添ってぬくもりを与え合うのもとても好きだけど、私にとって最も大切な恋人は他ならぬ私自身なのだ。
これは人間嫌い宣言でもなければやけくその誇大表現でもない。
「あっ、私もおんなじー!」
という人ならわかってくれると思うのだが…どうだろう?
究極の身内意識と言えば分かりやすいかもしれない。