「常識」

日記にもよく書いているし日頃からよく口にしていることなのだが、
「常識」
という言葉が嫌いである。
別に変わり者でいたい訳ではなくて、その簡単な言葉で物事を括るという行為が、考えることとか気持ちを揺り動かすことを殺してしまうように思えて嫌いなのだ。
「常識的に考えたらわかるだろ」
なんて、なんて醜悪な言葉。

極端に言うと、
物をもらっておきながら礼を言わない人間に対して
「物をもらったらありがとうと言うのが常識でしょ」
と言うのって馬鹿げてると思うのだ。
大辞泉によると、『常識』とは
【一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力】
だそうだ。
そうだよね。社会生活を営む上で、人に物をもらったらお礼を言うのが常識だよね。
でも、人に物をもらって礼を言わないとしたら、その常識を知らないことが問題なのではなく、そこに感謝の気持ちが生まれないことの方だと思うのだ。
(※感謝を表す方法が、イコールお礼を言うことなのだということは知ってる前提で。万が一知らなければ教えてあげればいいのだ。)


まーったく別の話に置き換えると、恋人のいる人間がそれを理由に他者からのアプローチを断る際に、
「自分には恋人がいるから」
と言うと、恋人さえいなければね・・・という脆さを感じるんだ。
それよりか
「自分には好きな人がいるから」
と言う方が、アプローチした方もこりゃしょうがないって気にならないか?私はなるな。

アプローチを断るにはどっちでもいいし言わんとすることもほぼ同じだろうと思うのだけど、「彼氏がいるから」は、今自分の置かれてる状況に流されてる感じ。「好きな人がいるから」は、自分の意志による感じ。
人の気持ちを力で変えることは難しいけど、状況は力で変わることもある。
もちろん「恋人=好きな人」であって欲しいとこだけど、必ずしもそうじゃない場合もあるし。

こんな風に悶々と考える隙を与えないためにも、だったら最初からずばり「好きな人がいる」という方が理想的だなあと。
そういう私の美学。
美学ってほど大層なもんじゃないな。こだわり?揚げ足取り?

話を戻して、だから物をもらってお礼を言うのも「常識だから」じゃなくて「ありがたい、嬉しい」って思う気持ちを言葉に置き換えたら「ありがとう!」になりました、って方がいいじゃん。という。
常識だからやって当然、常識じゃなければどうでもいい、みたいなそういうとこで判断する感覚が好きじゃないのだ。


物をもらってお礼を言う、という例はちょっと適当じゃなかったなと今更ながら思うのだけど。
まあいいか。


ようするに、偉そうに人に説教垂れる時は、ちゃんと頭使って全力でものを言え、というこっちゃ。
例え相手がとんでもないバカだったとしても、自分がろくに頭も使わないで偉ぶれば、その時点で相手と変わらぬバカになる。
先人や周囲の人間がつくってきた「常識」。自分1人では絶対作ることのできないその「常識」という武器を振りかざして、それがまるで己の力であるかのように勘違いすることを恥ずかしく思え、と。

でだ。
「常識」を持ち出すのは考えることを放棄していることのようだと言ったけれど、それは私がそうだからなのだ。
ものっすごく怒ってる時に、何故自分が怒ってるのかずらずらと並べ立て、相手にどうしてそれがいけないことなのかを話す。そんな時、我ながら理屈が通ってないな。とか、ちょっと自分の言ってることにはイマイチ説得力が無いかもしれないな。とか、これは私が不利かなー負けそうかなーとか思った時に出すのが、
「それが常識でしょ!」
って言葉なのだ。
ちなみにこの言葉を出した時点で私は心の中で
「しまった、負けた」
と思っている。例えそれが一般的に常識と思われてることだったとしてもだ。自分の言葉で語れなかった時点で負けなのだ。
くそう、悔しい。

これはあれだ、言葉で勝てなくなった時につい手が出てしまった時と同じだ。
暴力を振るった時点で負けが決まるのだ。

だいたいだってさ、絶対的常識なんてこの世にある?
『常識』として存在している事柄で、意味も無く『常識』として君臨してることなんて無いでしょうが。ちゃんと理由があるんだよ。だったらその理由の方を語りたいじゃない。

問答無用のことはある。
例えば日本における未成年の飲酒。
理由なんてなんだっていい。法律とかどうとかどうでもいい。
ダメったらダメなんだよ!飲みたかったら成人してから飲め!余所の国(ワインとかビールの国ね)とは文化が違うんだよ!今てめえに酒を飲む自由も権利も無い!
で、いいと思う。こんなもん理由をいちいち羅列して説明する価値も無い。ダメという理屈が破たんしてても構わない。問答無用だ。
ダメったらダメだ。お前は子供だ。
大人になったら思う存分飲め。自己責任で。
それでいいよね。

覚せい剤とか麻薬も。こっちは大人でも自己責任でもダメだ。ダメったらダメだ。何でダメなのか理由をいちいち羅列して説明する価値も無い。以下略。

犯罪全般もそう。罪に問われるかどうかとか、そういうこと以前にダメったらダメ、で通用するだろ!って感じ。少なくとも同じ文化に育ったもの同士なら。
まあ、だから多民族だと結構困ったこともでてくるんだけど・・・。そこはその国の決まりに従ってね、ということで・・・。


話が猛烈にずれてしまったけれど。

要するに、具体的に人を咎めたり叱ったりする時に「常識」という言葉を持ち出すのは私は好きじゃないってことだ。ボキャブラリーが貧困であるということがイヤ。まあ、語彙の少なさにかけては私もなかなか驚異的なもんだけど。だからこそ、イヤなんだよっ。
人に対して偉そうなこと言いたかったら具体的に言えってことだな。


反対に、楽しいことや綺麗なことに関しては曖昧な言葉が美しいと思う。
「粋」とか「侘び寂び」とか。曖昧で、人への押しつけが無い、わかる人だけが楽しめる世界って感じ。
「わかんない?それならそれでいいじゃないの。言葉や理屈でわかろうとするものじゃないし、わからなくても人生困るものでもなし。でもわかると気持ちが豊かになるわよね」
という柔らかさ。
わからなくったってさ、例えば
「粋を知らない武骨な働き者」
なんてかっこいいし。だからって「面白味のない人間」なんてこの世にいないと思ってるし。

ああ、でも私はわかりたいなあ。綺麗なものや悲しいものを愛でたり、いろいろなものに気持ちを揺さぶられて生きたいなあ。

ちなみに「礼儀」という言葉も、言葉の示す本質・意味する内容はさておき、その言葉を持ち出されること自体はあまり好きではない。礼儀がどうのこうのって言う人って、たいていその言葉に逃げてる感じがすんだよね。礼儀って言葉の威力を笠に着るって方がしっくりくるかな。

あ、「仁義」は好き。
「義理」は使い方によるかなあ。「義理人情」は割と好き。
結局ものっすごい個人的感覚的好き嫌いを語ったってことだわ。