怖いもの満載

覚えてる限り、通知表の体育の評価は大体2だった。5段階評価だと2。10段階評価でも3とかだった。

跳び箱が大嫌いだった。跳び箱を見ると自分が手を滑らして頭から落下して首の骨を折るところを自動的に想像してしまい恐怖で、どんなに前方に手をつけと言われてもできなかった。

今もし私が過去の自分に跳び箱の指導をするならば、まずは理屈で説明すると思う。

「軽く走ってくるじゃん?そんで、この板(ロイター板だっけ?)が、踏み込むとちょっとびよーんってなるからその力を使って更に手で跳び箱を後ろに流しつつ着地するだけ。」

まあ、この理屈が合ってるかどうかはわからないけど、子供の頃の私ならなるほどと思って実践してただろう。私は未知のことをやるのが本当に怖くてたまらなかったのだ。理屈で、こうだからこうなる、だからこうする、みたいにわかった上で(あるいはわかったような気がした上で)じゃないと動くことができなかったのだ。

ロイター板もさ、段数が上がるにつれ跳び箱からちょっと離して置くんだよね。今なら理屈はわかるけど、あの隙間に足がハマるに違いないと思ってそれも恐怖だった。

 

球技も嫌いだった。バレーでもバスケでもソフトボールでも、ボールを見ると自分の顔面にぶち当たって歯が折れるか頬骨が折れるか眼窩底骨折をするかのどれかだと思って恐怖で、ボールが飛んできてもそのボールから逃げることしかできなかった。

ドッジボールだけは唯一まあ大丈夫だった。というか怖くて死に物狂いで逃げるので大体最後の方まで残った。ただし最後の方になると段々みんなエキサイトしてきて球威が上がって恐怖が増すので、恐怖に耐えきれずわざとボールを持った外野の子の至近距離に立って、なるべく痛くないようアウトになることもあった(至近距離なので比較的ソフトに当たる)。

まあ、ボールが取れないので外野に回ったが最後何の役にも立たないのだけど。つーか外野に居てもボールが来たら逃げてたわ。

 

小学校か中学校か忘れたけど、数回だけミニバレーをやった時は天国だと思った。あの、大きくてぼよーんとゆっくり飛んでくるボール。私は一生ミニバレーをやりたいと思った。どうして全ての球技にミニバレーのボールを使わないのだと憤った。

とは言え遠近感が掴めないのと、自分の身体がどう動いてるのか球とどう相対してるのかがわからないので、打ち返すことができず破滅的に下手なことには違いなかった。

そういえばダンスが上手くないのも自分の身体の動きを把握してないからだな。卓球も同様。怖くないけど下手。

卓球の場合はラリーが続くにつれだんだん球が速くなってくるので脳がついていくのを諦めてしまうというのもある。

 

スケートも嫌いだった。北海道では冬になると校庭に水を撒いて一面スケートリンクにして、冬の間じゅう体育でスケートをするというとんでもない風習があるのだ(今はどうなんだろう?)

スケートはまず寒い。冬だから当たり前に寒い。手がかじかんで、靴紐を結ぶのが辛い。手袋をはいて結ぶと(※手袋をはく、は北海道及び青森周辺の方言です)細かい作業ができずぎゅっと結べなくて足がぐらつく。

吹雪いていてもスケートの授業は決行される。

吹きすさぶ風。降りしきる雪。ちょっとやそっと視界が悪くてもスケートの授業は無くならない。とにかく寒い。足も冷たい。手も冷たい。毛糸の手袋と分厚いスキー用の手袋を二枚重ねしても、厚手の靴下を重ね履きしてカイロを忍ばせても冷たい。私はいつも、手袋の中で指を抜きぎゅっと手を握りしめてスケートに臨んでいたけれど、それでも冷たいことには変わらずそれだけで気持ちが萎えていた。

そしてスケートリンクに立つと、私の脳裏には転倒した自分の手が後から来た人のスケートの刃に轢かれて指が切断されるところとか、喉とか顔に刃が突き刺さって貫通するところが浮かんでは消え消えては浮かび、とてもじゃないけど滑ることに集中などできなかった。びくびくと周りばかり気にしてよちよち歩きをするばかりだった。

スケートの上手い子はびゅんびゅんスピードを出すのだ。後ろから追突されて転ぶのではないかと、それこそ血の気が引くほど怖かった。だから余計に冷えたのか?

よりによって北海道のスケートはフィギュアスケートではなくスピードスケートなのだ。あの長いピカピカの刃のビジュアルが、余計に私の恐怖心を煽る。子供のころから今まで刃物というものが本当に苦手なのだ。カッター使うのが今でもホントに苦痛。

包丁が平気なのは上から見た時に厚みがあるからだと思う。刀身が薄いものとか細長いものが特に苦手なのだ。カッター大嫌い。

今思ったらおかしいよな。なんで吹雪いてるのに野外で授業をやるのか。ホント謎。しかしこれは小学校でも中学校でも同じだった。意地でも決行する。何故。

寒いのは晴れても吹雪いても寒かったけど、恐怖の方は視界が悪いと余計に増すのだ。10メートルくらい離れたらもう人影も見えないからね!

そしてこんなにスケートが嫌いなのに小学校中学校に加えてなんと保育園でもスケートがあったのだ。

どんだけスケート好きなんだよ旭川!おかげで10年以上やっちゃったよ!

同様にアルペンスキーも嫌いだった。年に2回あるスキー遠足が大嫌いだった。スキーを見ると首の骨を(以下略)寒くて(略)

しかしながら高校に入ってからは学校の校庭が野球のグラウンド4面ぶん+αみたいな広大な敷地&その先に広がる遥か未開の大地…みたいな感じだったので、それを活かして冬の体育はクロスカントリーだった。

夢のようだった。最高だった。クロスカントリー万歳だった。ダラダラとスキーで遠出して戻ってくるだけだったので、何の技術も身につかなかったけど構わない。怖くない。身体もあったまるしあんなに心安らかに体育の授業を受けたのは短大まで合わせてもあれが最初で最後だった。

まああれだ。高校におけるクロスカントリーは、単純にマラソンの代わりのようなものだった。

 

そう、マラソンと言えばだよ。

スポーツの中で私が唯一好成績を残したのが長距離走だった。長距離?中距離?2キロとか走るの。あれ大好きだった。

中学の時は、何の大会か知らないけどもエントリー済であることを先生に告げられて、貴重な土曜の午後に遠路はるばる馴染みの無い競技場まで赴いて訳も分からず走ったことも有った。演劇部なのに。

長距離走の何がいいかって、耐えているだけで終わりが来ること!みんなは嫌がっていたけれど、こんなに楽なスポーツは無い!と私は思っていた。

そして、何も難しいことを考えず自分ルールでやれること。これが良かった。

今でも覚えている自分ルール。まず、スピードは走り始めのものを基本として、そこから絶対に落とさない。上げるのはいいけど一度上げたらその上げたスピード以下には落とさない。

そして、射程圏内に入った人は必ず追い抜く。

これだけ。

まあ追い抜く時にスピードは上げるわけだけど、瞬間的に上げたスピードに関しては元に戻しても良いとかそんな感じじゃないかな。ただし追い抜いた人に追い抜かれることは絶対阻止。なので背後に気配を感じたらスピードアップ。

走り始めの時に周りの人に合わせてハイスピードになっちゃわないようあくまでマイペースに、というのさえ気を付ければバテることもなく、ゴールに着くころには無理なくある程度の順位になれていた。

 

本格的な競技なら頭も使うだろうけれど、あくまで体育の授業レベルだったら自分ルールで充分だったのだ。

 

ちなみに今も、歩くより走る方が好きだ。徒歩5分でも徒歩30分でも、ただ歩くのがもどかしくて嫌いなのだ。もちろん全力疾走じゃないし距離が長ければ休み休みだったりするけれど、ちょっとヒールの高い靴でも走るくらいにはよく走る。

とは言え街中で走ってると不審に見えるらしく、大抵前の人に振り向かれるけれど。そりゃそうだよね。通り魔だったりひったくりかもしれないって思うよね。ごめんなさいね。なるたけ道の逆端に寄ったりはしてるのだけど。

ひったくりって今でも使われてる言葉?かっぱらい?窃盗犯と言った方がいいか。

 

ともかく長距離走以外のスポーツには大体苦痛を感じていたのだ。そしてその多くは自分の想像から生まれる恐怖心によるものだった。

 

スケートの刃は今でも怖いので、実はフィギュアスケートを観る時も少し怖い。特にペアとアイスダンス。あと練習で複数人が滑っているのとか観るのは怖い。転倒して突き刺さったら…と思う。実際にいろんなケースの事故がある。

スポーツじゃないけどプロレスもちょっと怖い。

こちらも、実際に事故は起こる。

 

そして野球観戦。これは観て怖いだけじゃない。実際に、自分の方に打球が飛んでくるのだ。

初めて内野席に座った時、思った以上にファウルボールが観客席まで飛んでくるのが本当に怖かった。試合から目を離すことは無かったしボールの行方をじっと見てはいるけれど、普通なら避けられるボールを自分だけが避けられず脳天直撃する姿が容易に想像できた。

恐怖のあまり途中で席を立とうかとも思った。

 

それでも、心惹かれる方が勝ったのだ。

ずっと私に取りついていた巨大な恐怖心に、競技の持つ魅力が勝ったのだ。

 

だって現地で、内野席で大学野球が観たいんだもん!応援したいんだもん!(外野も好き。そして外野でも油断できない)

ペアもアイスダンスも面白いんだもん!シングルも!スケートが好きなんだもん!

プロレスなんて、この世で最高の娯楽なんだもん!恐怖なんて吹っ飛ぶもん!

 

子供の時にスポーツ観戦してたら恐怖心が薄れてたかもしれないし、変わらなかったかもしれない。その辺はもうどうにもならない昔の話ではあるけれど。

今現在、三つ子の魂から明らかに私は解放されたのだ。

 

「好き」のパワーって凄いなあと、思うのだ。