そういえば思い出したこと

旭川で。
アイヌ記念館や博物館に行くと言うと楽しんできてねと笑顔を見せた母が、北鎮記念館(屯田兵から自衛隊までの、旭川軍事史料館)に行くと聞いた時は少し嫌な顔をした。
告げずに行けば良かったのだけど、父と二人で行くのに内緒にするわけにも行かなかったので。
あまり歓迎されないだろうとは思っていたのでできるだけ聞き流してもらおうとさらりと言ったつもりではあるのだけど。

二・二六事件の芝居を書いた経験が無かったら北鎮記念館に行こうなんて生涯思わなかったかもしれない。
いや、北鎮記念館に限らず。
何しろ歴史というものに興味が無い、史料館を訪れるなんて発想すら湧かない、誰かに連れられて行っても流し見して帰ってくるであろう人間だったのだ。
でも、自分の知ってるつもりのことや先入観バリバリで見てきたものを別の方向から見る面白さ、そして歴史というのはほんの一幕だけでも、覗き見するだけでも面白いということをこの芝居で知ったのだ。
(どうでもいいけどオンリー新撰組ラブな人は歴史好きとは呼びたくないわー)


私は幼少時から部屋に溢れていた書物やら何やらにより父と母の思想をきっちり受け継ぎ、それが私自身の考えでもあると信じて思春期から20代半ばまでを過ごした。
まあ思想というのはいわゆる左方向というか、とはいえ私の場合は特に信念がある訳でもない「若干左に傾いた」程度のものではあったけれど。
その後ちょっとしたキッカケで今度はほんのちょっとだけ逆方向に傾きかけた時期があったのだけど、ちょうどその時に母とテレビを観ててうっかり戦争に関する話で母を傷付けてしまった事もあった。

今ではすっかり、左の人には右と言われ右の人には左と呼ばれるような芝居を書くようになったけれど、まあとにもかくにも親とわざわざ政治の話や戦争の話やその他諸々の話をする必要は無いと理解するくらいには成長した。


ところで母方の祖父は太平洋戦争の終わりが近づいてる頃に召集を受け、外国で命を落としている。

祖母と、四歳だった母と、まだ祖母のお腹にいた叔父を残して亡くなった祖父は無念でなかった筈は無かろう。彼女らの将来をどれだけ心配しただろうか、それを思うだけでも悲しくなる。

祖父母は当時としては晩婚だったようだ。祖父は祖母をそれはそれは可愛がり大事にして、炊事も洗濯もなんでも自分がやったそうだ。
優しい人で、結婚当初に当時日本領だったどこぞの国に赴任していた時も現地の人からとても慕われていたという。

ただ私は、こういったエピソードで感傷に浸るだけなのだ。それだけなのだ。


長崎の山の向こうに原爆の光を見た記憶があると母は言う。
たくさんの日の丸に送られていく父親の姿を覚えてると言う。
覚えてるのだろう。母の中からは拭うことのできないものなのだろう。

二人の子供を一人で育てた祖母の苦労がどれだけのものだったのかを母は近くで見てきたのだ。
いろいろなことが、あったのだろう。

私が知識としてしか知ることのできないこと、感傷でしか寄り添えないものを母は知っている。
そうして歩んできた母を、せめて今はなるたけ傷付けずにいたいと思うのだ。


つーか政治や戦争の話じゃなくてもさ、現実の世界のあらゆる話が危険をはらんでるんだよなあ。高校野球の話や、甥っ子のアレルギーの話すらも。
と、食卓で何度も不穏な空気を漂わせたこの夏を思い出す。

いやー、私は心が狭い。
そして私のダメなとこはあれだ。口が汚すぎてどんなに優しい正しいことを言っても私が最凶最悪扱いをされるとこだ。
まあ、数で勝つの嫌いだから。私が人を糾弾してる時は誰にも賛同されたくないからいいんだけどね。
賛同されたら賛同した人間を攻撃する奴だ、私は。


美味しいものの話や、面白い漫画や小説の話をしてるぶんには誰も傷付けずに済むからいいね!
母は「坂道のアポロン」気に入ってくれたようで、サントラまで買って楽しんだそうで良かった良かった。