8月だ!暑くて沸騰して。

夏だ!ステキな季節がやってきた!
しかしまあ、エアコンが壊れたのを放置してるせいで昼間は(日によっては夜でも)まるで仕事が進まない今日この頃です。
それでも夏が好き!

人間って脆いなあと思うことが多いけど、この暑さの中で生きてられることを考えると案外丈夫なんだなあとも思ったり。
しかし、熱中症ってのは恐ろしいのです。
あんまりピンとこないけど。
子供とか老人とか病人とか、あと動物とか、元気な大人に比べるとあっという間に生命維持に支障をきたすようなので怖いよ熱中症
というわけで元気な大人もあまり過信せずに気を付けよう。


己の尺度で物事を見るということ。
そのこと自体に特に疑問を持たずに生きてる人間って多いと思うんだ。
例えばクレヨンとかに表記されてる「肌色」。でも人種によって「肌色」って違うんだよねみたいな単純なことを、一度も思い至ったことがなければ気付かずに一生過ごしてしまったりする。
厳密に言えば同じ日本人だって色白の人と色黒な人、黄味の強さなんかで肌色は違うんだけど。

自分とそれ以外の人、自分ちと人んち、東と西、日本と外国、寒冷地と温帯地、とか、小さな違いから大きな違いまでいろいろ。
それぞれに常識が違ってたり。それは宗教で大きく変わったりもするし。
尺度はそれぞれ。みーんな違ってるんだけど、それでも人間と人間の付き合いっていうのは相手をよく見て対話することである程度成り立つと思う。
言葉の違い、思想の違い、文化の違い、常識の違い、マナーの違い。
理解できなくても尊重はできるはず。人間は進化してきた訳だから、それくらいはできると思う。


けどまあ、進化した脳みそだと考えるのが難しいことってのもあると思うのだ。
考えるのが難しいのか、それとも難しいことを考えてしまうのか。

人間が社会生活を営む上で必要な脳の構造っていうものはあると思う。
例えば、自爆テロを行う・行わせる。このことは私にはまったくもって理解しがたい理解したくもない根絶したい行為であるけれど、そこにいる人間も私もおそらく同じ脳みそを持ち合わせているとは思う。
互いに絶対にわかりあえることはないだろうし、もっと言えば互いに憎み合うくらいの違いがあると思うけれどそれでも。

すさまじい、それこそ脳がぶっ壊れてるとしか思えないような犯罪者も、必ずしも脳みそが違うとは思えない。
異常とも思える犯罪者の心理を私はわかりたくないけれど(きっと相手だって私をわかりたくないだろう)、脳みその構造は同じなんじゃないかなと思う人は多い。気がする。

でも世の中には、もしかしたらそもそも私の知ってる脳みそとは別のものを持っている、あるいは一部が別のものになっているのかなと思う人もいる。ような気がする。

病気と言う表現が適切であるかどうかわからない。
とにかく、一言では言えないけれど、何かが違う。気がする。

そしてその、私の尺度で言うところの「社会生活を営むのに必要な脳の構造」をしていない人がいたとして、じゃあその人をどうしたら良いのか、ということを考えると。
答えはどうしても出ない。

排除するという選択は、果たして正しいのか。
しかし排除しなかったらその後どうなるのか。
何かを起こした人は排除するべきか。起こさなかったら大丈夫か。起こしそうな人はどうなのか。すべては結果論に過ぎないのじゃないか。
そもそも何を基準に正しいかどうか決まるのか。

加害者と被害者がいたとする。
その加害者の脳みそがどういうものなのか。でも脳みそ云々はその時考えるべき問題であるのかそうでないのか。

一時的にぶっ壊れてしまった人間は、何をやらかしてもそれでも人間であると思う。鬼畜かもしれないけど人間でもあると思う。
でも、少しずつ変容してきて人間でないものに成ったものは、その後も人間に戻ることがあるとは私には思えない。
(※もともと違う脳みそを持って生まれてきたもの、というのが私にはピンとこないのでここでは省く)

そして、その人間でなくなったもの(というか別の脳みそを持ったもの)を裁くことはできるのか。裁いてもいいのか。
しかし裁かなかったとしたら、被害者とその被害者の近しい人たちの心は何が救うのか。
裁いても救われないかもしれないけど、裁かなかったらもっと救われないとは思わないか。

どんな異常犯罪でもどんな思想の持ち主でもどんなひどいことがあっても、そいつが同じ脳みそを持った人間であれば、私は何の躊躇も無く自分の心の中でその者を責めることができるし裁くことができる(法的に裁くのとは別問題として)。
だってそこには、同じ脳みそを持った人間同士の仁義を無視したという事実があるから。
尺度の違う世界での出来事であっても、その場合はちょっと考えてしまうとは思うけれど、許しがたいこと、社会において絶対にやってはいけないことというのは変わらないと思う。

でも、別の脳みそを持ってるかもしれない相手にはそれができない。
それをするとしたら私は、進化した人間の脳みそで無く、ただ獣のように、単純に恐ろしい外敵に対して襲いかかるように、
「殺してしまえ!」
と叫ぶ事しかできない。

例えば被害者や被害者の近しい人がそう叫んだとしてそれはきっと誰に咎められる筋合いも無いだろう。
叫ぶだけでなく本当に襲いかかったとしても。何の不思議も無い人間の行為であると思う。

ただ、第三者である私が、社会に生きる全ての種類の人間のことを深く考える訳でもなくのうのうと安穏と暮らしている私が、いつもは見てみぬふりをしてきた存在であるところの「別の脳みそを持ってるかもしれないもの」に何かを言うとしたら、その瞬間、自分自身も獣の姿をしているかもしれないことを忘れずにいたい。

もし獣にならず、進化した人間の脳みそのまま理性的に「殺せ」と言えるとしたら、きっと私の脳みそも既に変容してしまってるに違いない。

人間のまま、理性を持ったまま、全てを語れるほど賢く強く優しい人間になりたい。
それはそれでもう、人間とは言えない生き物のような気もするのだけど。


ちなみに本題とはずれることだけど、別の脳みそを持った人の中には穏やかな心の旅に出ている人も含まれるのかなとちらりと思った。
それとも彼らは脳みそは同じでただ旅をしているだけなんだろうか。

どちらでもいいけれど、彼らはそのまま穏やかな旅が続けられたらいいなと思う。
悪い方向に自分の力をぶつけたり、ぶつけざるをえない状況に陥ったり、逆に理不尽に迫害されたりすることのない、穏やかな旅が続くといいと思う。

まあこの考えもとっても他人事であり無責任なので、こんなことを語ってる私はきっと獣では無くおとぎ話のお姫様の姿をしているだろう。

お姫様よりも、責任を背負う王様に私はなりたいな。