別の人に書かせました。書いてもらわねばなりませんでした。何故なら自分には書けないから。

実はこの曲、別の人が書いてました。というニュースがありました。

その業界についてよく知りませんし(他の業界についてもよく知りませんし)このニュース自体をそこまで詳しく知らないのであれなんですが、今まで作者を名乗ってきた人のことを思うとなんでか悲しくなります。

なんででしょう。

今まで作者を名乗ってはいたけれど、自分が商品価値のある曲を書けないという事実は百も承知だった、という点に同情しているのかもしれません。
この人がもしも音楽を愛していたならば(その後お金への愛が勝ったとしても過去に音楽を愛していた時期があったならば)、その事実はとても残酷なことです。

まあ、とにもかくにも音楽に対して不誠実なことをしたという点に間違いは無いので、その罰として人に軽蔑され嘲笑されるということがあるのは、それはしょうがないというか、そうでなきゃならんのだろうなとは思います。

実際のところ、この人に才能があったか無かったかはわかりません。
自分の能力で勝負してきた訳じゃないのでそれはきっと誰にも(本人にも)わからないことなのでしょうが、自分の才能を信じられなかったことと、音楽に向き合うことよりお金を手に入れることのほうを選んでしまったことは確かなので、創作者としてそれはとても悲しいことではないのかなと。

自分だったら悲しいです。
私という外側の部分に何らかの商品価値があったとして(あったらいいなあ)、その価値に自分もしくは周りの人間が気づいて、それを活かすために中身の部分を外注して。
でも、その中身の部分こそが大事な部分であって。

外側も大事です。外側に意味が無いとはもちろん思いません。
むしろ売れるということを考えれば外側の方が大事という事もあったりして、ただ綺麗ならいい訳でもない、びっくりさせればいい訳でもない、お涙ちょうだいがいつまでも通用する訳でもない、仕掛け人とかプロデューサーが凄いのは、こういうところを見抜くところなわけですよね。
どんなに磨いて飾りをほどこしても、必ずしもお金儲けにつながる訳じゃなくて。


ここまで書いてふと思ったのですが、この方売れてたんですよね?注目はされてましたよね?
売れたからニュースになってた…んですよね?お金…儲かってましたよね?
私ったら知らんのによくここまで妄想で書けるなって感じですが。

なんかほら、世の中って芸能人とか有名人がまるで億万長者かのように錯覚されてることが多々あると思うので。
作家さんなんかでも、そりゃ人によっては大金持ちかもしれないけど、自分の活動に制限かからない程度には稼いでますよ、っていうくらいなのに大儲けしてると勘違いされてる人もいたりするので。

儲かって…ましたよね?売れてましたよね?私が疎いだけで。
じゃなかったらゴーストライターに払うお金も(ギャラいくらか知らんけど)稼げませんものね。
うん。ある程度は儲かっていたと仮定して。


このように、この話についてホントに何も知らないので、この作者を名乗ってた人が実は音楽に何の関心も興味も無くて、もともと愛も無かった人であるという可能性もある訳です。
もしそうならば、私は少し気が楽になるなあと思ったりするのです。それこそ壮大なペテンにはなる訳ですが、少なくとも私はその方が心痛まない。つまんないとは思うけど。
おそらくこの、才能の無かった(と、自分と世間は思ってる)作曲家にひどく自己投影してるのだと思います。
この人がもとから門外漢であってくれれば才能が無くても当然だし、悲しくないんだけど。ただし、もしそうならくだらない話です。


音楽を聴く側の立場で考えてみると、うーんどうなんでしょう。
多少のバックボーンは感動に影響を与えるかもしれないけど、まったく前知識無しにその音楽を聴いて、「良い」と思った感覚には、嘘は無い訳じゃないですか。
例え凶悪犯罪者がつくった曲でも、素人が鼻くそほじりながらつくった曲でも、大作家が戯れにつくった軽薄ソングだったとしても、聴いた人の聴いた瞬間の感動だけは真実だと思うのです。
だから傷つかないでね、と言いたい。曲の価値は変わりません。自分の感覚が真実ですよ、と。

まあ勿論、後から「ゴーストライターが書いてました」と聞くことで何となく感動にケチがついた気持ちになるという感覚はわからんでもないんですけど。
そんなこんなでショックを受けたり、あるいは音楽に対しての冒涜だわ!と思って、どうしても許せなくて罵倒している、という人がいるかもしれません。
それならば何となくちょっと救いがあるなあという気がします。音楽の世界にはちゃんと愛があるわ、みたいな。

でも実際には音楽への感動とか愛とは別のところの、もうちょっと単純な理由で罵倒してる人も多そうだよなあなんて思ったり。
しかしまあ、その辺は私はどうでもよいのだ。よいのです。


綺麗なものが好きだなあ。
すっごく愚かで、汚くて、ドロドロしてるからこそ綺麗なものというのがあると思います。そういうものが私は好きです。
お金は無いと困るけど、綺麗なものとは思いません。
すごく大事で必要でいつもお金のことを考えているくらい困窮している私だけど、お金自体は綺麗とか汚いとかの価値で語るものとは思わない。


ああ。
とってもとっても残酷ではあるけれど、この作曲家を名乗ってた人が本当の本当に音楽を愛していたのならいいなと思います。
己の才能の無さに苦悩して、元は持っていたかもしれないプライドも、いつしか音楽への愛すらも忘れ去ってしまっていた、という状況であれば、それはドラマであり悲劇であり、何の擁護もできない愚かしさであるなあと思います。

そして真実の作曲家のほうの人の、「罪悪感を感じていた」という言葉。これは事実の一つではあろうと思いますが、かなり長いことゴーストライターをやっていたそうなので、ただ良心が痛んでの暴露ではなく個人的な嫉妬みたいなものがあるんじゃないかなあ、あったらいいなあと思ったりします。

それならばこの話は、とても愚かで汚くてドロドロした、とても綺麗なものだなあと。


ちょっと妄想で自己投影し過ぎな気がします。
人さまの、それもいろんな事情の絡み合ってるであろう話を面白おかしく妄想するというのは下世話な行為です。
ただ、双方にきっちり愛があるような、そういう綺麗な話で無いのなら、これはそもそも取り立てて価値のある話では無いと思うのです。


この話の価値を決めるのは、登場人物の精神性がいかなるものか、という点だと思うのです。
愛の無いところにドラマは生まれないという、そういう私の価値観で語るとこういう論になるのです。
そんでもって、愛を語る時に法律的あるいは道徳的な善悪について同時に考えることは私には難しいです。

というわけで今日の日記は結局、脚本家であり演出家であり芝居が好きである私の、理想語りなのであります。