怒りの美学

「怒り」という感情が私は嫌いじゃない。
怒っていられるのは元気な証拠だと思う。

世の中の出来事であったり、身近な人であったり、自分自身であったり怒りの対象は様々だけれど、どうにもならないやという諦めの気持ちや嘆きの気持ちでは怒りは出てこない。

「なんでこんなことになるんだ!」
「なんでそんなこと言うんだ!」
「なんで自分はこうなんだ!」

と、最後にびっくりマークがつくだけで、あらまあなんて元気そう。

「なんでこんなことになるんだ…」
「なんでそんなこと言うんだ…」
「なんで自分はこうなんだ…」

ね、元気無さそう。

怒り続けなければならないことも世の中にはある。
ああ、あの人はずっと怒り続けてるな元気だな、と思う。
どうでもいいやという事に対しては人は怒らない。怒りも笑いも無い状態っていうのは、それは疲れているっていうことだから。
もしかしたら怒って怒って怒った先のその先に、本当に理不尽な嘆きや諦めが待ってることもあるかもしれないけれど、それは悲しいね。そんなことは無い方がいいね。
どうにもならないことで怒って、怒ってるうちに忘れて笑えるといいね。

どうしても忘れられずに怒り続けていれば、それが問題と向き合う後押しをしてくれることもある。
世の中や自分自身への怒りならば、それが自分のケツを叩いて前に進ませてくれることもある。
だから「怒り」は嫌いじゃない。
いや、嫌いじゃないんじゃなくて好きなんだ。
私はやっぱり怒るのが好きだ。生きてる限り怒っていたい。

世の中には、怒りじゃなくて笑顔や喜びに突き動かされ、かつ強い人、というのもいる。そういう人は心の底から素晴らしいと思うけれど、自分が真似ようとしてもなかなか真似られない。
私には怒りの方が身近に感じられるし、怒りと笑いとでメリハリがつく方が人生は楽しいとすら思っちゃう。
周りの人にとってはいい迷惑かもしれないけれど、私は自分が怒るだけじゃなく、怒ってる人そのものが好きなので、あまり迷惑が実感できないんだよなあ。
だって、人が怒ってると、その傍にいる自分もなんだかエネルギーが湧いてくるんだもの。

根底に悲しみのある怒りは、他人事ながら自分も悲しくなるけれど、それでも泣いてるより怒ってる方がいい。一緒に泣くこともできるけれど、一緒に怒ってあげる方が得意だ。
悲しみより怒りの方がましだって、速水さんも言ってるものね(「ガラスの仮面」)。

まあ私が一緒になって怒ってると、最終的に「お前がそこまで怒らなくてもいい」と、当事者が気を削がれてしまうらしいので、ほどほどにした方がいいのかもしれないけれど。
でも、気を削がれて空虚な気持ちになるのじゃなく楽しい気持ちになるならば、それはそれでいいか。

イライラはまったく別物だ。
イライラしてるだけじゃ何も起こせないけれど、怒っていれば何かを起こすことはできると思うのだ。
イライラには愛が無いけれど、怒りには愛がある。

何より強いのは人の笑顔、と言いたいところだけれど、笑顔を持続するのは難しい。
笑顔を絶やさず、かつ強くある、って言うのはホント凄いことだと思うんだけど。マザー・テレサとかのクラスにならないと難しいのではないだろうか。
取り繕った笑顔には強さは無い。そこにあるのは自己鍛錬だ。まあそれはそれで意味が無いとは言わないけど。
笑顔にしろ怒りにしろ、本気じゃないと強さはなかなか生まれない。

ここでひとつ主張したいのは、正しい怒りというものはシンプルで無ければいけない、ということ。
他人の足を引っ張ってやりたいとか、そういうのが入ってくる怒りは邪道。
自分の怒りに賛同してもらって地固めしよう、というのも邪道。本質を見失う。

自分の味方をしてもらいたい、という時の気持ちは弱い。一見怒ってるように見えても、嘆きの気持ちが強いとそうなる。
「自分一人でも怒る!」という真っ直ぐさが、怒りには必要なのだ。
正しい怒りは自分ひとりで貫くものだ、と思う。
それが怒りの美学なのだ。


稽古場でも役者が怒ると私は嬉しい。
なんとなく和やかに無難にやってるのを見てると、怒らせたい、と思う。
私を嫌って、なんだこのやろうと思って欲しい。もちろん邪道じゃない正しい怒りじゃないとあまり発展性が無いんだけど。

常日頃から怒らせようという意識をしてるつもりは無いけれど、役者の怒りを感じた瞬間に
「きたぞ!」
と高揚するこの気持ち。
で、怒れる役者はやっぱり元気だなあと思うんだ。

過去に、私が女優さんに勝手に気を使ってしまって、そういうとこまで踏み込んでいけない時があって、たまにそのことを思い出して反省している。
役者の元気を引きずり出す以前に、自分の元気が無かったってことだよなあ、と。そういう気の使い方は間違ってたなあと、思うのだ。

言うまでもなく、やる気の無い態度とか道義を欠いた言動で人を怒らせたいとか、そういうことを言ってるのではないのだ。

例えばこれが稽古じゃなくて、私がコンビニの店員だったとして、接客態度が悪くてお客と喧嘩になりましたとか、そういうのがやりたい訳じゃない。喧嘩する客の方にもなりたい訳じゃない。

信念を持った怒り。正しい怒り。怒らせ。それこそが美しいのだ。
見た目はどうでもいい。子供じみた感情的な怒りであっても冷静な怒りであっても、正しい怒りであればいい。

あくまで理想であって、実際には醜い怒りもボロボロこぼしているので、そういう怒り方をしてる時にはすっぱり気分を切り替えて笑えるといいなあと思うのだ。
私にとって笑顔は疲れを癒す場所であり、怒りというのは生きる為の力の源なのだ。

綺麗なものばかりではないけれど、はーあと疲れることもあるけれど、
笑顔で己を癒しつつ、私は怒っていたい。