この数日思い浮かんだこと。オボエガキ。

東野圭吾さんの素晴らしい作品のひとつ、『手紙』。映画化もされた。どうやってしたんだろうかと心配なので映画は観ていないけれど、原作は文句なしに素晴らしくて、悲しくて辛くて、心に重く残る。

「犯罪者の家族は、自分が罪を犯してなくても世間から差別を受け続けなければならない。理不尽に思うだろうがその差別は必要なのだ。だから我々は罪を犯さずに生きなければならない」

というような事を人格者の上司が主人公に言う場面があった。この言葉だけ取ると誤解を生みそう(しかも私の意訳)だが、長い作品の中盤くらいで出てくるこの言葉で、私は泣いた。良い上司なのだ、この人。話のわかる人間なのだ。だからこそこう言ったのだ。

自分の人生を大きく揺るがす出来事があった時、
何故こんな事が起こったの?どうして私がこんな目に遭うの?と、
人は原因を知りたくなるもののようだけれど、明確な原因が見つからない、そして憎むべき相手もいない、叫ぶ言葉が見つからない、そんな場合も世界には多く存在している。
残酷だ。生まれ落ちてしまったからにはどんなに辛くても生きていかなければならない。いつでも自分の為に生きていければ楽だけど、人の為に生きていかなければならない時もある。自分の人生だから好き勝手にやっていいという事は決してない。ましてや人の人生を勝手にねじまげてしまうなんて事は、決して許されない。許さないのは誰か?【神様】だ。または【来世の自分】だ。はたまた【良心】だ。誰でもいい。たぶん誰も許さない。

親って大変だなあ。いつかは手放さなければならない宝物抱えていろいろ心配して、宝物に関しての全ての責任を負いたい、もしくは負わなければならないと思い詰めてさ。
でも責任の取り方に模範解答が在る訳でもなし、個人が取れる責任なんて本当にたかが知れてるし。

例の上司の言葉は、自分の中の悪を封じる言葉だけれど、誤れば逆に善の皮を被る悪を解き放つ言葉になり得るだろう。

唱えるのは自分の責任だ。